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初代 大江 美智子(おおえ みちこ、1910年2月11日 - 1939年1月6日〔''大江美智子(初代)''、コトバンク、2009年10月30日閲覧。〕〔無声, p.174。〕)は、日本の女優である。市川右太衛門プロダクションで剣戟映画のヒロインを務めた後、舞台女優に転向、女剣劇の一座を旗揚げして一時代を築いた〔。大江の名跡は弟子の大川美恵子が継いだ〔、2009年10月30日閲覧。〕。 == 来歴・人物 == 1910年(明治43年)2月11日、大阪市北区曾根崎に「竹内静子」として生まれる〔。父は新派の俳優・松浪義雄である〔向井, p.15.〕。 1923年(大正12年)、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に入学し、満13歳で宝塚少女歌劇団(現在の宝塚歌劇団)に入団〔、13期生となる。当時は学校と劇団が分離しておらず一体であった。花組に所属し、主演娘役として活躍した。 1930年(昭和5年)の退団後、市川右太衛門の主宰する映画会社市川右太衛門プロダクションに入社、同年、冬島泰三監督の『雁金文七』でデビュー、続く同年の白井戦太郎監督の『上州無宿陣』で注目を集めた〔。同年の古海卓二監督の『旗本退屈男』では男役の霧島京弥役を演じ、スターとなった〔〔。 1932年(昭和7年)、日活太秦撮影所に移籍〔、松本房雄監督の『恋すればこそ』に主演したが、同社を退社、1933年(昭和8年)、女剣劇の一座「大江美智子一座」を結成した〔〔。1934年(昭和9年)、田中介二、酒井淳之助と大江をメインに東京に打って出た〔。大江の動きはこの時代に「女剣劇ブーム」を起こすに至った。 1939年(昭和14年)1月6日、剣劇『幡随院長兵衛』を上演中の兵庫県神戸市で、急性盲腸炎により〔死去した〔。満28歳没。志半ばの急逝に大江の名を惜しまれ、大江の父・松浪義雄の希望によって、大江の弟子・大川美恵子が名跡として「大江美智子」を継ぎ、大川が二代目大江美智子を襲名した〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大江美智子 (初代)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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